第4章 7月19日 玉城司先生の2回目の講演開催。
場所 西富竹公民館
1、富竹の江戸時代の紹介 小澤 15分
2、玉城先生と八木会長の檀上対談 60分
3、宮沢事務局長から「一茶と四方丸」句碑建立について説明 15分
参加者 23名
スタッフ 8名
コロナ対策を実施して盛況に終了しました。
報告 小澤文弘
講演詳細
7月19日(月)第2回講演会 13時30分開始
1開催の挨拶 登場者の紹介 玉城先生、八木会長、宮沢事務局長
小澤文弘が15分で発表した。
2地政学的に見た過去からの富竹を紹介します。
・冨武の名前は中世の諏訪社上社の祭りに乗っています。
・江戸時代より富竹を東西に通る街道あり 「上州街道」俗称です
・北国街道の吉田本町交差点~長沼大町交差点までの脇街道
・北国街道成立は慶長16年(1611年)。江戸への近道として須坂より大笹へ通ずる大笹街道であり、4泊5日の1日短縮できた。
吉田・原町・富竹・金箱・長沼大町から千曲川を渡って相之島へ通じた江戸への商品作物販売の短距離化に重要な道路
浅川の反乱災害を避けて道路が東西の街道になっている。(過去は金箱より北川が被害)
19号の千曲川氾濫でも、浸水は少なく(字名 どぶを避けている)
道幅も2.2m~4.2mと一定でなく、人家も屋号の代表される家が中心で、街道を外れればのどかな田舎風景」です。
・一里塚、夏の木陰、冬の風よけの並木のない。馬方の休憩所間借り家もない華やかさの無い田舎の村道に屋号のある家が点在していました。
上州街道を国定忠二が権堂より通ったかも?
(天保年間の富竹石高 911石・・・(人口 1000人 200戸)
{ 令和2年 5500人 2300世帯}
屋号・・くるまや、・・・とらや と家が道路沿いに点在しています。
・直心院の前に提灯や~山道街道との別れに山中やがあります、村のはずれぐらいで、大村理髪店を過ぎれば人家がある荒屋があります。
大河ドラマでも渋沢栄一でも出てきましたが、浜田藩の飛び地がありました。
中心に陣屋があり石州松平周防守の出張陣屋があります。(6万石のうち1万石(寛政4年~天保8年 45年間支配)浜田藩の密貿易を間宮林蔵に摘発さる)
島根県 松平藩は茶の湯で有名
現在は徳永一族の氏神として陣屋稲荷があります。
善光寺~長沼町~須坂は経済が流通すると同時に文化も行き交った通りでした。
宮澤家長屋門にて保存されていますが、宮沢家は400年前より存続しております。
富竹でも江戸時代から明治にかけて学ぶという姿勢は見えます。
明治7年に富竹小学校開校以後古里小学校へ統一されていく。